妻有ビール 高木千歩さん
新潟県十日町市で「妻有ビール」を立ち上げ、クラフトビールを造る高木千歩さん。今ではすっかり「ビールの人」という印象だが、もともと醸造の仕事をしていたわけでも、若い頃から起業を目指していたわけでもない。
東京で会社員として働き、地域おこし協力隊として十日町へ移住。地元野菜を扱う仕事に携わり、飲食店を始め、そしてビール造りへ。話を聞いていると、一つひとつの出来事が次の扉につながり、気がつけば今の場所まで歩いてきたようにも見える。
「東京とは、真逆の世界だった」

高木さんは十日町に生まれた。ただし、それは母親が里帰り出産をしたから。幼い頃は新潟市、その後は父親の転勤に伴って埼玉、兵庫、東京と各地を移り住んだ。
父方も母方もルーツは十日町。子どもの頃から親戚を訪ねれば、米や野菜を抱えきれないほど持たされて帰る。そんな場所ではあったが、自分がそこで暮らすとは考えていなかったという。
転機になったのは2011年だった。
東日本大震災の直後、東京ではスーパーやコンビニから食料品が消え、トイレットペーパーまでなくなった。
「物流が止まって物がなくなったら、お金があっても買えないんだなって。ちょっとゾワッとしたんですよね」
その時、高木さんの頭に浮かんだのが十日町だった。田んぼがある。畑がある。薪で暖を取り、料理をすることもできる。山のどこに飲める水が湧いているかを知っている人もいる。
かつて中越地震が起きた時には、高木さんの祖父たちも山の清水を汲み、薪でご飯を炊き、自宅にあった米や野菜を使って炊き出しをしたという。
物がなくなった東京の棚と、あるものを持ち寄って人に分ける十日町。
「真逆の世界だなと思ったんです。ここって、実はすごいところなんじゃないかって」
同じ頃、父親が急逝した。父の墓をどこに建てるか家族で話し合い、最終的に先祖の墓がある十日町に建てることになった。
いくつもの出来事が重なり、高木さんは次第に「十日町で暮らす」という選択を真剣に考えるようになった。そこで見つけたのが、地域おこし協力隊だった。
東京に戻るつもりは、最初からなかった

それまで長く勤めていた会社の仕事が嫌だったわけではない。むしろ、いろいろな業界の仕事に関わることができ、仕事そのものは楽しかったという。
それでも会社を辞め、30代後半で十日町へ。
「帰るつもりはゼロでした。なんとか十日町に仕事の足がかりをつくらなきゃと思ってました」
協力隊では、地域の農家が作った野菜を地域の中で流通させる取り組みに関わった。農家から野菜を集め、販売する。地産地消の仕組みをつくり、それが自分の仕事になればとも考えた。
しかし、一人が生活していけるだけの事業にするのは簡単ではなかった。協力隊の任期が終われば、東京へ戻るか、地域の会社に勤めるか、自分で仕事をつくるか。高木さんの中には、東京へ戻るという選択肢はもうなかった。
ならば、自分で何かやってみよう。
選んだのが飲食店だった。飲食店の経験はゼロ。ただ、料理は昔から大好きだった。東京で会社員をしていた頃から食べ歩き、飲み歩きが好きで、外で食べた料理を自宅で再現して友人を招くこともしょっちゅうだった。
「メニューを考えることはできるなと思ったんです。ただ、厨房の回し方とか食材の管理とかはやったことがなかったので、そこはもうトライアンドエラーでした」
協力隊で関わってきた野菜の仕組みは後輩たちに引き継ぎ、今度は自分の店が、その野菜を仕入れる側になった。活動が形を変えながら、地域の中でつながっていった。
「十日町のビールはないんですか?」

飲食店を始めた当初は、地元のお客さんが中心だった。店では全国各地のクラフトビールを仕入れ、関西など遠方から取り寄せた珍しいビールが喜ばれていた。
それからしばらくして、大地の芸術祭などをきっかけに十日町を訪れる観光客が増えてくると、店のお客さんの顔ぶれも変わっていった。
「せっかく新潟に来たのに、なんで大阪のビールを飲むんですか?」
そこで新潟や長野、東北など、旅先として違和感のない地域のビールを揃えるようにした。それでも、今度はこう聞かれる。
「十日町のビールはないんですか?」
「ありません」と答えながら、千歩さんの中に一つの疑問が生まれた。
「じゃあ、どうやったら造れるんだろう?」
千歩さんは、取引のある醸造所を自分の休みを使って回り始めた。その数、十数軒。設備を見せてもらい、規模を聞き、どうやって経営しているのかを調べた。
最初に訪ねた醸造所は大きな工場ばかり。「これは億単位だな。やっぱり自分一人でやるなんて無理だ」と思い始めていた頃、甲府の商店街にある小さなブルワリーを訪ねた。
商店街の空き店舗の中に醸造設備が並んでいる。最初は店の前を通り過ぎてしまったほどだった。
「こういうやり方もできるんだ」
十日町にも空き店舗はある。それまで到底手の届かないものに見えていたビール造りが、その時初めて、ほんの少しだけ現実のものに見えた。
それでも調べれば調べるほど、簡単ではないことも分かった。設備には多額の資金が必要で、酒税もかかる。
「これは無理だな」
一度は完全に諦めた。
「そこまで分かって始めるなら、いいんじゃない?」

転機をつくったのは、東京時代の元上司だった。会社を辞めた後も千歩さんのことを気にかけ、時々「その後どうしてる?」と連絡をくれていた人だ。
ある時、その人から聞かれた。
「この先、何かやりたいことがあるんだろ?」
千歩さんは「ないです。レストランを頑張ります」と答えた。それでも何度も聞かれ、ふと思い出したように、以前考えたブルワリーの話をした。
「でも、とんでもなくお金がかかるので諦めました」
すると返ってきたのは、「事業計画書は書いたのか?」という言葉だった。
「次に会うまでに書いてこい」
宿題を出された。
調べれば調べるほど、やはり厳しい。初期投資は大きく、リスクも高い。事業計画を持っていった時には、「夢みたいなことを言ってすみませんでした。やっぱり諦めます」と話したという。
ところが、そこで思いがけない言葉が返ってきた。
「そこまでリスクがあると分かって始めるなら、いいんじゃない?」
さらに、資金面でも支援してくれることになった。千歩さん自身も資金を用意することを条件に、止まっていた歯車が突然動き始めた。
「わーい!とは思えなかったですね。背中に大きな荷物をドンと載せられた感じ。失敗できないし、借金を背負うかもしれない。もう、やる方に歯車が動いちゃったんだなって」
2017年1月、会社を設立。そこから酒類製造免許の取得に取り組み、約一年かけて準備した。初めてビールを仕込んだのは、2018年1月だった。
華やかな仕事?「八割は掃除ですよ」

ビール造りというと、楽しそうなイメージがある。イベントでたくさんの人に囲まれ、グラスを片手に「乾杯!」。
ところが千歩さんに言わせれば、現実はまったく違う。
「仕事の八割は掃除か洗浄です」
タンクを洗う。道具を洗う。とにかくきれいにする。ビールそのものを造っている時間よりも、洗ったり磨いたりしている時間の方が圧倒的に長いという。
では、なぜ続けられるのだろう。
「自分の“好き”と仕事がイコールになっているんですよね。それって、すごく珍しいことだと思うんです」
旅行に行けば、その土地のクラフトビールを探す。見つければ飲んでみる。新しい造り方や材料を知れば興味が湧く。それは仕事のリサーチでもあり、同時に自分自身の楽しみでもある。
「ライフとワークが一緒なんですよ。ここから仕事、ここからプライベートって分けられない」
だからこそ、イベントで直接お客さんと話し、自分たちのビールを飲んでもらえる時間は何より楽しい。
「ライバルだけど、協力者でもある」

千歩さんがクラフトビールの世界を好きな理由が、もう一つある。業界の横のつながりだ。
新しい材料を使う時、「これ、どうやりました?」「こうしたらうまくいったよ」。そんな情報交換が、醸造家同士で普通に行われているという。
もちろん商品としては競争する。それでも、おいしいビールを造るための知識や経験を共有し、業界全体を良くしていこうという空気がある。
「ライバルだけど、協力者でもあるんですよね」
自分も先輩たちがつくってきた道の上を歩かせてもらっている。だから聞かれれば、自分が知っていることは伝える。そんな文化も、千歩さんがこの仕事を好きな理由の一つなのだ。
妻有ビールが「地酒」になる日

2018年に醸造を始めてから、順風満帆だったわけではない。
ようやくこれから県外にも売っていこうと思った矢先、コロナ禍がやってきた。飲食店やホテルで酒が提供できなくなり、売るはずだったビールが行き場を失った。
ビールは突然生産を止められるものではない。すでにタンクの中では、次々とビールが出来上がっていく。冷蔵庫には売れないビールが積み上がった。
そこで、それまで導入できていなかった瓶詰め機を急きょ購入し、家庭向けの販売やECに切り替えた。なんとか危機は乗り越えたものの、そのためには新たな資金を借り入れる必要もあった。
コロナ禍をしのぐために借りたお金の返済は、今も続いている。
「私の中では、コロナはまだ終わってないんですよ」
それでも、千歩さんには目指している姿がある。
「地域に長く残れる会社になりたい」
観光客が来た時に選んでもらえるだけではない。十日町の人が普段から、「妻有ビール、いいよね」と言って飲んでくれる。
地域の酒蔵が長い年月をかけて「地酒」になってきたように、妻有ビールもいつか十日町の日常の中に自然にある存在になりたいという。
「十日町といえば妻有ビール、みたいになれたらいいですよね」
派手な夢を語るというより、淡々とそう話す千歩さん。
けれど振り返ってみれば、東京の会社員だった人が十日町に移住し、地域おこし協力隊になり、飲食店を立ち上げ、そして醸造所までつくってしまった。
本人は何度も「無理だと思った」「怖かった」「必死です」と笑う。
たぶん、千歩さんは、最初から大きな夢を描いて一直線に進むタイプではない。目の前にある疑問を放っておけない。「どうしたらできるんだろう」と考え、調べ、会いに行き、話を聞き、そして最後には自分でやってみる。
「十日町のビールはないんですか?」
あの日、お客さんから投げかけられた小さな問い。その答えは今、十日町で造られ、たくさんの人のグラスに注がれている。
いつの日か、それが誰からも当たり前に「十日町の地酒」と呼ばれる日まで。

千歩さんは今日も、醸造所でタンクを磨いている。

