隠津島神社 第63代 禰宜 安部章匡さん
1200年以上の歴史ある神社で、世襲制を貫く家に生まれた章匡さん。実際にお会いするとその歴史や重圧をまったく感じさせない。今どきの好青年で物腰もやわらかな素敵な方でした。コロナ禍の2021年には、地域を元気付けようとマルシェを主催したり、神社の敷地内にカフェを開いたりと新しいことにも積極的に取り組んでいます。
1981年福島県二本松市生まれ。國學院大学を卒業後、18年間にわたり福島県神社庁にて広報などの職務に携わってきました。2020年からは実家である神社の仕事に本格的に従事し、ホームページの改修など、神社の情報発信にも積極的に取り組んでいます。
幼い頃から、父の姿を間近で見て育ち、神職という仕事の大変さを実感してきましたが、いつしか自分もこの道に生きることを意識し始めました。自分の息子にこの道を継いでほしいという想いも抱いています。
しかし最近では、人々の生き方が多様化し、神社の歴史や家業の重圧から解放され、神職の道を進まない選択をする人が増えているそうです。その結果、神社で神職が不在のケースも増加傾向にあり、今後もその数が増えることを懸念しています。
隠津島神社では、そのような神職不在の神社の業務も幅広く引き受け、安部さんも春や秋になると地域の祭りやイベントで忙しい日々を送っています。2019年からマインドフルネスの実践を始め、神社に来る人、関わる人、全ての人が「穏やか」になってもらいたいと願っています。
隠津島神社
二本松市木幡地区にある建立1254年を迎える隠津島神社。地元の人からは、木幡の弁天様と呼ばれ親しまれています。
毎年12月に行われる木幡の幡祭りは、師走の風物詩として全国に知られています。
隠津島神社は、神護景雲3年(769年)に宗像の三女神を御祭神として勧請されました。大同年間(806年)には、平城天皇の勅願によって弁天堂が建てられ、神仏混淆の社となり、後世には木幡の弁天様と呼ばれ庶民に親しまれるようになりました。
天正13年(1585年)伊達政宗によって隠津島神社は全山が炎上し、本社と末社はすべて焼失しました。しかし、藩主や一般の人々の信仰心が非常に厚く、神社は再建されました。明治時代になると、神仏分離令に従い、別当であった治陸寺は廃止され、神社は厳島神社として呼ばれました。その後、明治35年に神社名を隠津島神社に復旧し、明治40年には県社に指定されました。
大東亜戦争が終結した後、神道指令に基づいて、隠津島神社は宗教法人として登録され、かつての社格(元県社)は解消されました。2017年に世界遺産登録をされた福岡県宗像大社の分社にあたり、平和、幸福、知恵、縁結びの神として幅広く信仰されています。
神仏混淆時代に設置された「鐘楼」。戦時中には、金属供出令から鐘を守るため山から転がし隠したと言われています。
縁結びの神様としても知られ、恋愛に限らず人間関係、仕事、財政、知識、幸運などあらゆる縁を築く神様として尊敬されています。敷地内にある縁結びの御神木は、異なる2本の大木が石を大切に守っているような佇まいです。