200年の伝統へ挑戦 8代目蔵元が描く日本酒の未来

廣瀬商店(旧白菊酒造) 八代目 廣瀬慶之助さん

あうたびツアーでは、たびたびお世話になっており酒蔵での陶芸教室という企画もありました。地元の陶芸家さんを講師に招き、思い思いの酒器や皿を作りました。コロナ禍の2020年には、茨城名物のあんこう鍋と白菊のセットをお届けして、オンラインツアーを開催。200年の歴史と8代目という重圧を背負いながら、失敗を恐れず常に新しい事に取り組む廣瀬さんにお話を伺いました。

あうたび人ストーリー

1972年茨城県石岡市生まれ。「とにかく勉強がキライだったんですよ。」と学生時代を振り返る廣瀬さん。代々続く造り酒屋を営む父と元国際線のキャビンアテンダントという母のもと4人兄弟の長男として生まれ、厳格な父親の顔色を伺う少年時代を過ごしてきました。

高校時代は家業を継ぐという気持ちはなく勉強もキライだったので、卒業後はどこかに就職でもしようと考えていました。ある時、父親から大学くらい入らないでどうすると言われ、そうか!東京の大学に通えば、父親と離れて暮らせる。と考え直し東京の大学に入学。

大学に入ると初めての一人暮らし、父親と離れて暮らす解放感もあり、やりたい放題の楽しい日々を過ごす。卒業後も就職はせず、宅配ピザや自動車関連などのアルバイト生活。そんな中、都内で酒屋を営む先輩から誘われ酒販店に入社。ここで酒の流通などについて学ぶことになりました。

数年経ったある日、定年退職する人がいるので、家に戻ってこないか。と父親から言われ実家の酒蔵へ入社。最初の5年間は、現場の仕事を覚えるため蔵人と一緒になって酒造りを学ぶつもりでした。

ところが、入社してから2年くらいは、社長の息子だからと特別扱いされ、まともに酒造りをさせてもらえませんでした。これでは勉強にならないと思い、3年目から蔵のみんなと一緒に寝泊まりをすることにしました。同じ釜の飯を食べて裸の付き合いをすると徐々に気持ちも通じ合い、本格的に酒造りを学ぶことができました。

その後、経営陣として最初に取り組んだのはリストラと設備投資でした。日本酒の消費量は、毎年下がり続けておりどこの酒蔵も厳しい状況で、廣瀬商店も減産が続いていました。従業員を応接室へ呼び説得をして辞めてもらう辛くて苦しい仕事でした。設備投資も資金がない中で、酒造組合に相談に乗ってもらいどうにか進めて行きました。

改革は酒の味そのものにも及びました。これまで組合に丸投げだった原料の仕入れを見直し、地元産の米を中心に、生産者の顔が見える安心で高品質なものに切り替えました。また、酒の味を大きく左右する酵母まで変えるなど試行錯誤の繰り返し。「こんな酒は白菊じゃない」などと批判を受けるも恐れずに改革を進めました。

その結果、徐々に製造量も増加に転じて、2015年から海外への輸出もスタート。現在では、アジア、ヨーロッパを中心に世界10ヵ国へ酒を届けています。2023年で創業218年。地域の人に愛される酒、伝統を守りながら少数精鋭での酒造りを今も続けています。

廣瀬商店(旧白菊酒造)

廣瀬商店は、霞ヶ浦にそそぐ恋瀬川のほとり、西に筑波山を望む高浜の地で1805年に創業しました。酒造りに適した寒冷な土地と、筑波山水系の良質な地下水に恵まれ、200年に渡って地域の人々から愛されてきました。奇をてらわず、生活の一部として溶けこむ「飲み飽きしない味わいの酒」として地域との優しく深い結びつきを大切にしていきます。

令和4酒造年度(2022年)全国新酒鑑評会 金賞受賞

石岡市は、筑波山系の清水(ミネラルが豊富で鉄分を含まない)を使用し、古くから酒造りの街として知られ「関東の灘」と呼ばれていました。霞ヶ浦から伸びる河川を活用した水運が発達し、酒以外にも重量物を容易に運搬することができたので、多くの味噌・醤油蔵があったと言われています。

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